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アイライト

前回は、光を通す木材だったが、今回も光を透過させる「i.light」と言うセメント素材について。

前回のアクアウッド同様に、セメント自体が光を通すのではなく、表明に開いた小さな穴によって光が通る仕組みだが、セメントブロックの強度は通常のものと変わらないとのこと。

企業秘密の特殊な樹脂を配合して製造されたもので、遠くから一定の角度で見た場合は通常のコンクリートと全く変わらず、日当たりが強い時は濾過するメッシュの働きもするらしい。

実際に上海万博ではイタリアパビリオンに使用され、現在特許申請中。

同様に光を通すものがドイツでも開発されているが、こちらはセメント内に光ファイバーを埋め込むと言うもので、コスト的にはイタルセメンティ社の方が低コストだ。

ふと思ったが、光を通す穴が空いてると言うことは風通しもいいのだろうか。

夏場はいいが、冬場はきつそうな新素材だ。

さらに臭いも通すとなると、トイレの外壁には使えない。

その場合はドイツ型に軍配が上がる気がする。

て、ことをつい考えてしまう僕の頭にも穴が空いてるのかも知れない。

関連記事(英文)
↓↓↓
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1344383/Transparent-light-cement-lets-light-flood-room.html


Italcementi Group(開発元)
↓↓↓
http://www.italcementigroup.com/

アクアウッド

アクアウッド(AQUAWOOD)は朝日木材加工株式会社が製造、販売する天然木無垢材とアクリル素材をスリット状に並べて特殊な接着技術で積層構造の一枚のパネルにしたものだ。

厳密に言うと、木材とアクリルと言う従来の素材をデザイン的に組み合わせただけで新しい原材料が使われている訳ではない。

いわゆる「レトルト」素材の部類だが、内装や家具などの素材として、様々な場面での応用を提案している。

建材や家具以外にもこんな使われ方も

アクアウッド
↓↓↓
http://www.aquawood.jp/

素材

「素材」と言ってもその言葉が指す範囲は幅広い。

天然素材などの原材料を指すこともあれば、人の手によりデザイン的に作られたものまで「素材」と言う概念で扱われる。

つまり「土」のようなものから、「プリーツ」地のような既製品まで用途により「素材」とされる。

後者の素材はレトルト食品のようなもので、便利だが表現的に類似したものになる可能性が大きい。

現代では「新素材が新しいデザインを作り出す」とも言われるが、原材料に近い新素材だけどなく、デザイン面から作られた既製品的な新素材も数多く発売されている。

緑と赤

信号機にも使われてる「緑」と「赤」。

その意味は言うまでもないが、船の右舷、左舷にも同じようにこの2色のライトが使われている。

右舷が「緑」で左舷に「赤」で、船の進行方向から見るとちょうど信号機と同じ位置になり、夜間その船がどっちに向かってるか確認できる。

同様のものが航空機の翼にもついてる。

我が家の照明のスイッチはオフの時は「緑」でオンにすると「赤」になる。

しかしテレビのランプはオフの状態が「赤」でオンで「緑」に変わる。

テレビに接続しているデジタルチューナーも同様だ。

確かにテレビやチューナーも消えていても本体電源は入っている状態なので間違いではないかも知れないが、照明機器と逆なので、やや戸惑うことがある。

ちなみに車内清算型のグリーン車の座席もタッチすると「緑」から「赤」になる。

これも考え方によっては逆のような気もするが、トイレと同じ考え方をすれば分からないでもない。
多分、いろんな配慮からこうなってるのだろうが「赤」と「緑」の使われ方は不思議である。

手で考える

頭だけで考えてただけではなかなか解決しないことでも

実際に手で触ることで生じる発見が解決のヒントになることは多い。

手を使うことで、より多くの情報を得られるために当然だが、僕たちはあらゆる面で手を使うことをしなくなりつつある。

例えば下のような一枚の紙切れから作ったものを皆の前に置き、触らないで切り込みだけを入れて同じものを作るようにと言うと、実際はなかなか作るのが難しいようだ。

ファイル 104-1.jpg

ファイル 104-2.jpg

「本当に一枚の紙なんですか?」とか「糊を使ってはだめですか?」との質問も多い。

戸惑う相手に、駄洒落で「ちょっと頭をひねるだけでできるよ。」

と言うと何人かはその言葉に「はっ」とした顔をする。

しかし大半は悪戦苦闘のままだ。

実際に手に触れると簡単に仕組みがばれてしまうが、見ただけではなかなか分からないものなのである。

ここでは敢えて解答は書きませんが、実際にやってみてください。

頭を一ひねりすれば、簡単にできますよ。

ちなみに切り込みは3ヶ所です。

デッサンのテクニック

要はいかに本当らしく嘘がつけるかである。

もともと平面の紙切れに三次元の空間を感じさせようなんてこと自体が嘘つきの始まり。

つまり「嘘つきレベル」が上がるればそれだけデッサンも上達する訳である。

しかし、嘘をつくのはなかなか難しい。

適当に嘘をついたのでは、すぐにばれてしまうので、あらかじめいろんな下調べや自然体で嘘をつく練習を普段からしておく必要がある。

特に見える部分ではなく、見えない部分への配慮が大切だ。

すると見えないものまで簡単に描けるようになったりもする。

だいたい、ほとんど透明で見えないサランラップなど、ただ眺めていても描けるようにならない。

どんな特徴があって、どんな構造をしてるのか。どんな風にごまかしたら本当にあるように見えるのか。

そんなことを理解した上で嘘をつくと

あれ、不思議、、人の目は簡単にごまかせる。

真実以上に本当ぽい嘘がつけるようになったら、あなたはデッサン上級者。

ただ嘘つきのテクニックは向上しすぎると、逆に「嘘っぽく」なるので注意が必要。

ちなみに僕は今だに二次元デッサン。

嘘をつくのが苦手です。

構図

よく絵画や写真等で使われる「構図」とは

つまり料理における「盛り合わせ方」みたいなものである。

美味しい料理であっても、盛り付け次第では食べたくないものになる。

逆に、まずい料理でも盛り付け次第で美味しそうに見せることは可能だ。

ただし後者の場合は食べてがっかりしてしまうのに対して、前者は、「意外にいける」と言う評価が得られたりする。

見せかけと内容はやはりバランスが取れているのが一番だが

まずい料理をわざわざまずそうに盛り付けるメリットは少ないかも知れない。

似たようなことは普段の社会生活の中でもある。

一見、悪そうな人が良いことをすると、実際より高く評価されるのに対し、逆に見える人が良いことをしても前者程評価されることは少ない。

「意外といい人」と

「意外と美味しい」は

似ている。

話しが横道にそれてしまった。

洗脳

昔から「洗脳」と「教育」の関係はよく問題にされる。

はたして洗脳なのか、教育なのの判断が非常に難しい事例も数多くある。

結論から言うと、教育より洗脳の方が簡単である。文字どうり「育てる」ことが不要だからである。

また教育を受ける側に、無意識で洗脳を期待している面があったりする。

それは洗脳がとても分かりやすく、すぐに結果が得られて達成感を感じることができるからだ。

洗脳に疑問があってはいけないが、逆に教育とは疑問を誘発してそれを解決してゆくことだと思う。

洗脳は自分で考える能力を喪失させる性格のものでもあるため、結果的に考えること、そして疑問を抱く能力を喪失させてしまう。

手順通りに機械のごとく、そして他者と同じように物事を進めることは確かに安心感を与えるが、一方で自分で考えなければならない要素が入ってくると、どうすればいいのか戸惑ってしまう子供達も多い。

幼児教育には見栄えの良い結果が出るようなキット教材を特に数多く見かける。

これは言うなればレトルト食品のようなものである。ある程度料理された材料が用意され、手順通りに作れば皆同じようなものができる。そして達成感が得られる。確かに達成感は必要だ。

教育の平等性などを考えると、それも意味があることではあるが、独自性が生まれる可能性は低くなる。

出来上がりがそれなりによく見える為に子供達や親の満足感や評価も得られることもキット教材がもてはやされる理由でもあろう。

しかし、試行錯誤から生まれる発見や自分で考える要因が少なくなってしまうために自分だけで何かを生み出そうとする発想力、創造力は低下しがちだ。

発見のない教材は明らかに欠陥品であり、安易にキット教材や教材マニュアルを使うのは教師の怠慢な場合もある。

個々の能力や個性に応じた教育は確かに現在の教育環境ではなかなか難しいが、今一度、結果だけでなくその過程を重視する教育を見直すべきだろうか。

現在の教育現場ではパソコンが表面的な技術手法で終わっているものも多い。

勿論、有効な使い方をされているものもある。

単なる子供騙しでパソコンを利用してるような根っこのない教育にしない為には結論に導ける思考や概念が必要だ。

本質的なことは今では家庭にも普及しているようなパソコンに頼らなくても学べる内容ではないだろうか。

肌色

現在では以前は必ずクレパスなどに入っていた「はだいろ」と言う名前のものは見当たらない。

代わって「うすだいだい」や「ペールオレンジ」の名前であの「はだいろ」が入っている。

これは10年位前より差別に対する問題意識から、人種・個人差等によって肌の色は異なるのに特定の色を肌色と規定する事はおかしい、としてこの名称を避ける動きがあり、各画材、文具メーカーが名称変更に動いたためである。

また、美術教育上の観点からも特定の色を肌の色とするような固定概念を与えるような名称は好ましくないと言う理由もあるようだが、根底には差別意識の問題が大きいようだ。

確かに、人と言えば実際とは掛け離れた肌色を安易に使ってしまうことは表現上は望ましくはないかも知れない。

しかし、「はだ色」というのは、日本人が何千年もかけて理想の肌の色として育ててきた概念でもある。

絵に迷わず「はだいろ」を使ってる子供に

「ほら、でも実際の肌の色はこの色とは違うよね。こうやってオレンジと白混ぜて、それに緑を混ぜてくすませていくと、どう?こっちのほいが近くない?」

とやって見せると、たいていマジックでも見たように驚く。オレンジと白を混ぜることには納得する子供も、それに緑を混ぜることはとても不思議なことのようだ。

ただこう言うことが色の理解や発想にもつながってくる訳で、個人的には「はだいろ」の存在はちゃんと説明すればひとつの基準、そして文化の一面としてあってもいいのではないかと思う。

「はだいろ」と同じような表現は外国にもあり、同じく問題になったりしたようだが、「はだいろ」は前述したような概念的な側面もある。

黄色人種である日本人が理想とした肉色を基準とする概念があって、白人、黒人と言う概念が出てくる訳で、それが人種差別に繋がると言う考えはあまり納得できない。

過剰な差別意識が日本文化独自の色の名前が消し去り、記号的な「ペールオレンジ」などと言う味気ない言葉になってしまったのは残念なことにも感じる。

食欲をそそる色

以前は決まって色彩関係の本を開けば「食欲を感じる色は暖色系の色である」との断定的な記述がよく見られた。

「傾向がある」なら納得できても、断定的な表現にはいささか違和感を覚えた記憶がある。

人の色に対する意識は国や環境、時代によって変化するものだ。

また科学的な裏付けがあたとしても、色に関するイメージや人体反応は先入観や感情等にも大きく左右される。

最近、ある食品メーカーが実施した調査によると、「最も食欲をそそる色」として1位となったのが「緑」で400人中168人がこの色を選んだのだという。「緑」は新鮮な野菜を連想する、と大人気なのだそうで近年の日本人のヘルシー指向を感じさせると言うものがあるらしい。

また、2010/5/30(日)中日新聞の「おうちの科学」内田麻理香さんの記事では
「食品・栄養学の研究で知られる川染節江氏が日本人と米国人に色見本を見せて、食の好み(食欲が増すか否か)を調査した結果、色による好みの違いは万国共通ではなく、日本人は青い色を見ると食欲が減退する傾向があるのに、多くの米国人にはむしろ食欲が増す色である、だそうです。」

とアメリカにおける意外な食欲に関する色の概念を紹介している。

その信憑性はともかく、変動するだろう食欲に対して色の概念を環境や時代背景を考慮せずに「この色はこうだ」と決めつけてしまうことは新興宗教や洗脳教育並に胡散臭い感じを受ける。

もしかしたら、僕達は色の集団催眠にかかっているのかも知れない。

僕は明快な根拠もなく断言するような内容の本を僕は「洗脳本」と呼んでいる。

確かに「〜のようだ」や「〜の傾向がある」等の曖昧な記述よりも断定したほうが明快で一般受けはいい。

そんな本を手に取る人は分かりやすい結果を求めているので当然なのだが反面、洗脳されてしまう確率も高くなる。

占い本を執筆するには役に立つ知識が満載だったりするが、柔軟に検証することも必要ではないだろうか。