昔から「洗脳」と「教育」の関係はよく問題にされる。
はたして洗脳なのか、教育なのの判断が非常に難しい事例も数多くある。
結論から言うと、教育より洗脳の方が簡単である。文字どうり「育てる」ことが不要だからである。
また教育を受ける側に、無意識で洗脳を期待している面があったりする。
それは洗脳がとても分かりやすく、すぐに結果が得られて達成感を感じることができるからだ。
洗脳に疑問があってはいけないが、逆に教育とは疑問を誘発してそれを解決してゆくことだと思う。
洗脳は自分で考える能力を喪失させる性格のものでもあるため、結果的に考えること、そして疑問を抱く能力を喪失させてしまう。
手順通りに機械のごとく、そして他者と同じように物事を進めることは確かに安心感を与えるが、一方で自分で考えなければならない要素が入ってくると、どうすればいいのか戸惑ってしまう子供達も多い。
幼児教育には見栄えの良い結果が出るようなキット教材を特に数多く見かける。
これは言うなればレトルト食品のようなものである。ある程度料理された材料が用意され、手順通りに作れば皆同じようなものができる。そして達成感が得られる。確かに達成感は必要だ。
教育の平等性などを考えると、それも意味があることではあるが、独自性が生まれる可能性は低くなる。
出来上がりがそれなりによく見える為に子供達や親の満足感や評価も得られることもキット教材がもてはやされる理由でもあろう。
しかし、試行錯誤から生まれる発見や自分で考える要因が少なくなってしまうために自分だけで何かを生み出そうとする発想力、創造力は低下しがちだ。
発見のない教材は明らかに欠陥品であり、安易にキット教材や教材マニュアルを使うのは教師の怠慢な場合もある。
個々の能力や個性に応じた教育は確かに現在の教育環境ではなかなか難しいが、今一度、結果だけでなくその過程を重視する教育を見直すべきだろうか。
現在の教育現場ではパソコンが表面的な技術手法で終わっているものも多い。
勿論、有効な使い方をされているものもある。
単なる子供騙しでパソコンを利用してるような根っこのない教育にしない為には結論に導ける思考や概念が必要だ。
本質的なことは今では家庭にも普及しているようなパソコンに頼らなくても学べる内容ではないだろうか。