少人数のアットホームなところがいいのか。
もしくは大手の多人数のところがいいのか。
どんな予備校がいいのかなかなか難しいことではあるが、受験と言うことを考えてしまえば、結論としては多人数の中でもまれるのが一番ベストなことなのかなと思う。
自分のことを思い返しても、先生が云々と言うよりも影響が強かったのは同じ環境で競い合った友人達だったし、若い時はとにかく引きこもらずに視野を広げられる多難な環境に飛び込んでいくことが大事に思える。
4cm-4cm | アナログ
少人数のアットホームなところがいいのか。
もしくは大手の多人数のところがいいのか。
どんな予備校がいいのかなかなか難しいことではあるが、受験と言うことを考えてしまえば、結論としては多人数の中でもまれるのが一番ベストなことなのかなと思う。
自分のことを思い返しても、先生が云々と言うよりも影響が強かったのは同じ環境で競い合った友人達だったし、若い時はとにかく引きこもらずに視野を広げられる多難な環境に飛び込んでいくことが大事に思える。
頭だけで考えてただけではなかなか解決しないことでも
実際に手で触ることで生じる発見が解決のヒントになることは多い。
手を使うことで、より多くの情報を得られるために当然だが、僕たちはあらゆる面で手を使うことをしなくなりつつある。
例えば下のような一枚の紙切れから作ったものを皆の前に置き、触らないで切り込みだけを入れて同じものを作るようにと言うと、実際はなかなか作るのが難しいようだ。
「本当に一枚の紙なんですか?」とか「糊を使ってはだめですか?」との質問も多い。
戸惑う相手に、駄洒落で「ちょっと頭をひねるだけでできるよ。」
と言うと何人かはその言葉に「はっ」とした顔をする。
しかし大半は悪戦苦闘のままだ。
実際に手に触れると簡単に仕組みがばれてしまうが、見ただけではなかなか分からないものなのである。
ここでは敢えて解答は書きませんが、実際にやってみてください。
頭を一ひねりすれば、簡単にできますよ。
ちなみに切り込みは3ヶ所です。
昔から「洗脳」と「教育」の関係はよく問題にされる。
はたして洗脳なのか、教育なのの判断が非常に難しい事例も数多くある。
結論から言うと、教育より洗脳の方が簡単である。文字どうり「育てる」ことが不要だからである。
また教育を受ける側に、無意識で洗脳を期待している面があったりする。
それは洗脳がとても分かりやすく、すぐに結果が得られて達成感を感じることができるからだ。
洗脳に疑問があってはいけないが、逆に教育とは疑問を誘発してそれを解決してゆくことだと思う。
洗脳は自分で考える能力を喪失させる性格のものでもあるため、結果的に考えること、そして疑問を抱く能力を喪失させてしまう。
手順通りに機械のごとく、そして他者と同じように物事を進めることは確かに安心感を与えるが、一方で自分で考えなければならない要素が入ってくると、どうすればいいのか戸惑ってしまう子供達も多い。
幼児教育には見栄えの良い結果が出るようなキット教材を特に数多く見かける。
これは言うなればレトルト食品のようなものである。ある程度料理された材料が用意され、手順通りに作れば皆同じようなものができる。そして達成感が得られる。確かに達成感は必要だ。
教育の平等性などを考えると、それも意味があることではあるが、独自性が生まれる可能性は低くなる。
出来上がりがそれなりによく見える為に子供達や親の満足感や評価も得られることもキット教材がもてはやされる理由でもあろう。
しかし、試行錯誤から生まれる発見や自分で考える要因が少なくなってしまうために自分だけで何かを生み出そうとする発想力、創造力は低下しがちだ。
発見のない教材は明らかに欠陥品であり、安易にキット教材や教材マニュアルを使うのは教師の怠慢な場合もある。
個々の能力や個性に応じた教育は確かに現在の教育環境ではなかなか難しいが、今一度、結果だけでなくその過程を重視する教育を見直すべきだろうか。
現在の教育現場ではパソコンが表面的な技術手法で終わっているものも多い。
勿論、有効な使い方をされているものもある。
単なる子供騙しでパソコンを利用してるような根っこのない教育にしない為には結論に導ける思考や概念が必要だ。
本質的なことは今では家庭にも普及しているようなパソコンに頼らなくても学べる内容ではないだろうか。
現在では以前は必ずクレパスなどに入っていた「はだいろ」と言う名前のものは見当たらない。
代わって「うすだいだい」や「ペールオレンジ」の名前であの「はだいろ」が入っている。
これは10年位前より差別に対する問題意識から、人種・個人差等によって肌の色は異なるのに特定の色を肌色と規定する事はおかしい、としてこの名称を避ける動きがあり、各画材、文具メーカーが名称変更に動いたためである。
また、美術教育上の観点からも特定の色を肌の色とするような固定概念を与えるような名称は好ましくないと言う理由もあるようだが、根底には差別意識の問題が大きいようだ。
確かに、人と言えば実際とは掛け離れた肌色を安易に使ってしまうことは表現上は望ましくはないかも知れない。
しかし、「はだ色」というのは、日本人が何千年もかけて理想の肌の色として育ててきた概念でもある。
絵に迷わず「はだいろ」を使ってる子供に
「ほら、でも実際の肌の色はこの色とは違うよね。こうやってオレンジと白混ぜて、それに緑を混ぜてくすませていくと、どう?こっちのほいが近くない?」
とやって見せると、たいていマジックでも見たように驚く。オレンジと白を混ぜることには納得する子供も、それに緑を混ぜることはとても不思議なことのようだ。
ただこう言うことが色の理解や発想にもつながってくる訳で、個人的には「はだいろ」の存在はちゃんと説明すればひとつの基準、そして文化の一面としてあってもいいのではないかと思う。
「はだいろ」と同じような表現は外国にもあり、同じく問題になったりしたようだが、「はだいろ」は前述したような概念的な側面もある。
黄色人種である日本人が理想とした肉色を基準とする概念があって、白人、黒人と言う概念が出てくる訳で、それが人種差別に繋がると言う考えはあまり納得できない。
過剰な差別意識が日本文化独自の色の名前が消し去り、記号的な「ペールオレンジ」などと言う味気ない言葉になってしまったのは残念なことにも感じる。